宿 第二部 11
 静子の親にご馳走してもらっている事を思い、さらに運ばれるい
くつかの小鉢や皿をそろえた卓の上に、藤木家の気持ちを感じた。
俺はありがたくきちんと頂こうという気持ちになっていた。
 あんな唐突な申し出の仕方だったとはいえ、とにかく俺は結婚を
言葉にし、今こうして静子と向き合い「正式な」もてなしを受けて
いるのだ。
 ビールが運ばれ、静子の酌のあと軽くお互いのグラスを触れさせ
て小さな音を立てると、さっきから馬鹿に渇いていた咽を潤した。
 出されたうなぎは、木桶のような器でせいろ蒸しになっていたの
で、ここらではこうやって食べるのが普通なのかと静子に聞いてみ
た。が、どうやらそう言うわけでもないらしい。
「ここの社長はいろいろ研究熱心なお人で、養殖の仕方も、加工出
荷の仕方もしょっちゅう改善改善で新しい事やってるのよ。これも
昔は品書きにはなかったから、きっとどこかよそから仕入れてきた
やり方なんじゃなかろうか」
 そういいながら静子は俺の茶碗にうなぎの飯を盛り付け、薄焼き
卵をうえにまぶした。
 養殖か天然かの違いなど判別できるような舌を持ち合わせてはい
ない俺は、ちょっともったいないような気分で箸を手にしたが、ふ
と、ここしばらく、まともに食事をした気がしてなかった事に気付
いた。そういえば俺は、あれ以来、食事のときも上の空だったな。
正直、俺の頭の中は静子のゴム姿、いや、真のゴム娘というにふさ
わしいその感性(心というべきか?)への想いだけで一杯になって
いた。目の前のこの娘、今はなんでもないごく普通の女なのに。
 ゆっくりとした食事が、俺の精神を少し落ち着かせた。俺は静子
の店が今どんな風なのか少し聞いてみた。
「ご覧の通りで人が減ってるから商売は正直楽ではないですがぃ。
私には自分のやり方がいいのか悪いのかもよく判らん。ただ、お客
さんにとにかく喜んでもらおうと思って頑張ってるんは伝わってい
る気がする。売り上げは、おとうちゃん一人でやってるときより伸
ばしたし。だいぶ」
 俺は、自分も商売の事はあまりわかっていないから、口出しする
事は出来ない。が、彼女が誰にも教わらず自分流で今日までやって
来たことは、褒められる事かもしれないがいかにも頼りない気がし
た。素人の俺がいっしょになっても、店は喰いぶちが増えるだけで
ジリ貧か、という思いが垂れ込めてきた。しかし彼女は屈託のない
顔で話し続ける。
「私も高校出てから仕事初めて8年になるけど、最近わかってきた
ことがある。目先の儲けより日頃のサービスが大事って事。私が商
品を愛してそれを売ればお客に伝わるって事」
 彼女が家業、というより自分がつかんだ商売の勘所について眼を
輝かせて話しているのを、なんだか冷ややかに聞いている自分を感
じ、我ながらちょっと嫌な気がした。だからこれ以上この話題の深
みに入らない事にした。
 すべて平らげると、
「あーおいしかった。大変ご馳走になりました」といって手を合わ
せたが、本当のところ、途中からは食事に意識が無かったようだ。
 玄関の脇で静子が会計を済ませるとき、女将が出てきて俺に挨拶
し、それから静子に、
「社長が事務所脇の養鰻池に直接来て欲しい言うておったぎ。梅田
課長がまた、社長お得意の発明ですかね言うて呆れとったで。お付
き合いも大変ですがいねぇ、静子さんもなぁ、ほほほ」
 静子も、
「いえ、川清さんのご繁盛は社長さんのお力ですから。喜んで社長
さんのお気に召すよう、お手伝いさせてもらいますがぃ」

宿 第二部 12
 店にいる間に、今朝からの雨もすっかりあがってしまい、流れる
雲の合間に晴れ間がのぞいて、時折、陽差しが射すまでになってい
た。
 さっき来た道を少し戻り、車をプレハブ脇のスペースに止めた。
あたりにはいくつかのビニールハウスや露天池があり、車から降り
るとポンプのうなる音や水の流れる音、池の何箇所かで水車がバシ
ャバシャいう音が途切れることなく続いていた。
 静子は「うふふ、吉岡さんゴメンナサイね、私ちょっと胴長履い
ちゃいますからね」
 そう言うと嬉しそうに車のリアゲートを開け、ちょっとくたびれ
た青シート地の袋から黒々した大きなゴム製品を取り出した。
 ガボン、という音をさせて伸ばすと使い込んだが良く洗ってある
厚手のゴム胴長の姿になり、そこにすばやく靴を脱いだ静子が足を
入れた。手馴れた要領ですばやく胸元まで引き上げ、平ゴムの肩ひ
もをかけると、ちょっと悪戯っぽく笑みを見せながら、もう一度袋
の中を探って、今度は長々とした黒いゴム手袋を1本ずつ取り出し
た。
 それを嵌めながら、
「私がこうなっちゃうと、もう、ゆうべのこと思い出しちゃうでし
ょ。ふふ、大丈夫、今夜もね」
 といい、ゴム手袋は何かを握るしぐさを見せた。
 俺はにわかに下半身に充血してしまい、「ったくもう」といいつ
つも、彼女のゴム姿を眼で楽しんだ。
 そのカッコのままで、「養殖課事務所」と書かれた引戸をあけ、
「こんにちは課長、あのー社長に呼ばれてますんで失礼して先に池
に寄らせて戴きます。品物は後でお届けしますから」と告げた。
 中では50代半ばといったところか、はげ頭の小柄な男が口元を
真一文字にしたまま、
「ああ、藤木さん、池であんまり暴れんといてな。社長の趣味の池
でも結局わしらが面倒みなならんから。ま、暴れるな言うても無理
か。ま、しっかり社長の機嫌とったって」
 語尾に若干の笑いを含め、社長の口癖を真似するように、
「ウチのうなにゃ付加価値をつけるぎ、のぉう!」
 とだみ声でうなって見せた。
 ボッゴボッゴ、バロバロと全身に分厚いゴムのうねを躍らせ、ヌ
メリ光ながら歩くゴム手袋ゴム胴長の静子といっしょに、プレハブ
の裏手に回ると社長と3〜40代前後の女性社員数人を含む養殖場
の人たちが待っていた。彼女達は胸に「加工課」と刺繍した白衣を
着ていた。
 社長は静子を見て、
「おぅ、さすが用意がいいの、準備万端で来おったが。見てみい、
普段うなぎいじりおらん娘っこでも、こがい積極的にわしのやるこ
とを理解して協力してくれおる。お前たちみたいに固定観念で安泰
と思ってたら新しい付加価値は生みだせんがぃ」
 と豪快にわめいている。
「あのー、社長、また池に入って手で餌やればいいんですか?」
「そうそう、この間あんたが池んなかで、うなぎに直接餌付けして
くれたおかげでわしゃ閃いたんじゃ。娘っこが直に触れながら育て
たうなぎ、というのは付加価値になるがぃに。今日はウチの女性社
員、ってかオバチャンたちにな、見せてやって。おっかなくない事
を教えてもらうが。ほれ、軟めのえさ。これ使ってな」
 静子は一般家庭用の紫のビニール手袋をした年配のオバチャンか
ら金たらいでこねたカーキ色の練り物を右の黒いゴムの手で受け取
ると、
「では、行ってまいります」
 と元気に言いながらゴム手で敬礼の真似事をし、そーっと池にゴ
ム長の足を入れた。下がぬるむのか、少しずぶずぶと入り込み、ひ
ざ下まで水に浸かる。さらにもう片足をいれ、一度池の中に両足立
ちになった。
「どこらへんに?」と聞くと、社長は、
「そんなに深くはならんから、あんたそのカッコならちっと先まで
行ったって。あの、棒が立ってるあたり」
 すると、頬を赤らめた静子は、泥まみれの一歩を踏み出した。

宿 第二部 13
 ズッコ、ジュッコ、といいながら一歩一歩前進する間に池の水は
濁り、濡れたゴム長を持ち上げるたびに足には徐々に泥ドロが付着
してきた。
「ああん、足元がぬるぬるする。長靴の下がじゅくじゅくしとって
て・・・ ああ、ぐちゅぐちゅしよる、ああ」と独り言を言ってい
る。
 こっちで見てるほうは、目にチカラがこもっている社長以外、み
なニヤニヤしているが、なかの一人のオバチャンが「だいじょうぶ
?」と声を掛けると、
「そりゃぜんぜんだいじょうぶだわこれっくらい。私こんなに守ら
れてるんだからゴム長で。丈夫なゴムで守られてるぎに、私ぜんぜ
ん平気ですよ。ゴムの胴長履いてるから、こんなんぜんぜん怖くな
いんよ!」
 そんなことをいいながら、ゴムの胴長をゴムの左手でさすって見
せた。離れているのに濡れたゴムは、ギュアィーっとへんな音を聞
かせた。
「商売熱心な娘っこだな、宣伝しちょるよ」といって女たちは、が
やがやクスクスと何か話している。
 餌を持った手を掲げたまま、不安定に途中何度かよろけながら棒
のそばにたどり着いたときは、股下まで池に浸かっていた。
「ここらでよいですか?」といい、社長がうなずくと、その餌を手
で割って左手を池の水に浸けた。するとにわかに水面にしぶきが上
がりながら池に浸した彼女の黒いゴムの左手首は、無数のうごめく
ものにみるみる覆われ始めた。
「きゃはは、すっごい! うなぎが、こんなにうなぎが! あはは
は! 重い、あははは!」
 池のほとりで午後の日差しの中に立つ黒光りしたゴムの娘が、い
まや水面を押し上げるように黒々とぬめるうなぎの中に腰下までう
ずまり、ゴム手袋の片手をその盛り上がりに捉えられたようなかっ
こうで身をよじっている。が、発せられるその言葉は笑いで聞き取
れないような有様で、それはまるで抑えられない歓喜のはしゃぎ声
のようだ。
 合間にキュルキュルキュウキュウと、うなぎの声か、静子のゴム
足にまとわり付く無数のうなぎのこすれる音なのか判別できぬまま
聞こえてくる。
「社長、社長、アレしよりますか? ああ、もぉう・・・!」
 そう言うと、答えも待たず、掲げていた残りの餌をいきなり自分
の腹や胸元に塗りつけてしまった。
 すると、彼女の黒光する濡れたゴム胴長の腹や胸をめがけ、精力
の化身を思わせるヌメヌメした無数のうなぎが滑らかにぬめりなが
ら、あらん限りの力を振り絞って次々にうねり這い登ってきた。
 俺は、なんだか昨夜の風呂場がダブってきて、あのうなぎのなか
に、自分の下半身が混じって暴れながら、彼女のゴムの体に自らを
押し付けているような錯覚を覚えた。
 見ると、社長がスゴイ形相でその様子を凝視している。
 あとからあとから絶え間なく胸元までせり上がってくる、濡れた
ゴムのようなうなぎの群れに圧し包まれたゴム胴長の静子は、周り
で人の目があるのに、
「んああ・・・わたし・・・ああ、重い、ああ、もうっ・・・」
 と、恍惚とした声を上げているではないか。
 さすがに見ていた女性社員たちも気になったのか、
「あれ、大丈夫かえ? あーりゃ私たちにはちょーっとなぁ」
 と引き気味になってしまった。しかし社長は半ば興奮気味で、
「これぁいい。精力つけるうなぎはこうでなければな。『うなぎ登
り』ならぬ『うなぎのおなご登り』でなぁ。ぬひひひ」
 とご満悦に変な声で笑っている。
 池の上ではなおも欲望の化身、ゴムのようなうなぎの群れに身を
ゆだねた静子が、ゴム胴長にぬめる圧力を受けながら、恍惚と立ち
尽くしていた。

宿 第二部 14
 まるで、突然ゴムの女に立ち入られたことで、極度に興奮し盛り
上がってしまったかに見えた水面も、いつしか落ち着きを取り戻し
ていた。
 社長の「もうええよ、こっち戻って来んがぃ」の合図で、ゴムの
指先を伸ばしたまま放心していたかに見えた静子は、少ししてから
こちらに踏み出した。途中泥まみれの胴長のゴム足がよろけて大き
く一歩を外し、「きゃあっ!」と水面に激しく泥水のしぶきを上げ
て、濁り水の中に片手片ひざ付いてしまったが、これも、胴付ゴム
長靴、長ゴム手袋の防護威力を見物人に見せ付けたような格好にな
った。
 こんな状態なのに満面笑顔の静子は、まるでドロ遊びの子供その
ものに見える。
「そらぁ、この程度の池はべつに平気だぃ、ああしてしっかりガー
ドしておればお前たちも、なんも心配ないがに。のぉ」
 社長が周りの女性社員にまた説得を始めた。
「これから毎日餌やりはコレで行くがぃに。ほれ、佐々木、ほれ、
波岡、加工ラインのことは心配せんでいいがら、交代で一日一回、
餌やり頼まれよ、のぅ」
 ふざけ半分で、拒む女性社員にゲンコツを振りかざすような格好
で舌打ちし「こいつらぁ」とか言っている社長をよそに、俺はニッ
コニコの静子が上がる池の端に近づいた。
「ごめん、吉岡さん、なんだか変なトコ見せてしまったぎになぁ」
 俺はあまり表情を変えず、手を差し伸べて泥水でニュルヌルした
彼女の黒いゴム手袋の手を取り、池から上がるときにグイッと引き
上げた。
 上がった拍子によろけて勢い付き、前のめりにこちらに来た静子
のもう一方のゴム手も素手で受けたとき、俺はこの女は俺のものな
んだぞと言う事を、周り(特に社長)に見せつけてやったような気
になっていた。そう思わないと気が済まない気分だったのだ。
 彼女は水道で自分のゴム手ゴム胴長を洗い清め、「吉岡さん、悪
いけど後ろの方、洗ってくださらない?」と俺を呼んだ。
 俺は黙ってホースを受け取り、水をかけながら、彼女のゴムの腕
や、背中、腰、尻まわりを手でさすった。冷たい水の流れを受け続
けるツルツルとしたゴムの体の感触と、こちらに振り向いた彼女の
笑顔とが一つになって、俺の中にまたしても抗しがたい乱れた感情
が波立ってしまった。
 彼女はそのあと、きれいになった黒いゴムに日の光を受け、ピカ
ピカに光ながらドッコドッコと歩いて車に戻り、ひとまずそのゴム
胴長とゴム手袋を脱いだ。
 俺は、なんだか緊張の糸が緩んだように、力が抜けるのを覚えた
が、荷室の段ボールを三つ積み上げて運ぼうとしている静子を手伝
い、大きい方の2つを運んだ。
 事務所で先ほどの課長に納品伝票を渡し、内容をチェックしてい
る。
「ああ、そういえば藤木さん、先日の胴長のパンク修理、助かりま
したぎ。しかしあんた、あんな古いんまで直しちまってたら、あん
たの商売前に進まんがいに。いい加減にせばよいに」
「いえ、あんなにしてても使えるのもゴムの良いとこです。大事に
長く使ってくださりゃその方がいいがぃ」
「まーったくな。んま、そんだからウチの社長はあんた買ってるん
だがいな。ようやってるよあんたさんは。ああ、あと選別課と加工
課のもこっちに置いてっていいがに。あとで取りに来させるぎ」
 そういいながら、三つの段ボールを開けて中身をチェックしてい
るところを、俺は横から観察していた。なるほど、この養殖場だけ
でいろいろな部署があって、違う需要で静子の商品を使っているの
がわかった。今回の配達分だけで厚手ゴムの胴長やゴム手袋などの
水産関係の製品から、食品衛生用の白長靴、ビニールエプロンやら
家庭用のビニール手袋などまであり、間違いなくここは静子にとっ
て大事な得意先なのだろう事が見て取れた。

宿 第二部 15
「どうもありがとうございました」
 そう言って、元気に目いっぱい頭を下げると、引戸を閉めて事務
所を後にした。
 先程の女子社員の内の一人が入れ違いに事務所に来るところで、
「ごくろうさんな。おかげで社長、上機嫌だぎ」と、静子に笑顔を
向け、一呼吸おいて「あったしらぁ、ニョロニョロ責めは勘弁して
ほしいがにぃ。しゃーないか。やれやれ、ほほほ」と続けた。
「すんませーん。ほんに」と、愛想を崩さずにぺこりと頭を下げる
静子は、一方、俺にも済まなさそうにしながら、車へ乗るよう促し
た。
 見ている者もないのに、事務所に向かって軽く会釈しながらエン
ジンをかけ、車を車道にのせた静子は、来た道と逆に向けながら、
「すみません、吉岡さんにつき合わせてしまって悪いけど、このま
まもうちょっと回らせてね」と遠慮がちに言う。
「ああ、仕事なんだからいいよ。俺はなにも邪魔しないから、どう
ぞ自由に行ってくれよ」
 と答えたが、その時の内心面白くない気分が語気に表れていて、
突然の態度の変化に驚いた静子は一瞬こっちに眼を向けた。
 シャーシに小石が弾ける音を聞きながら、のどかな水田風景の中
を行く車の中、俺はガキのようにふてくされて、窓の外に眼を向け
たままにしていた。横で静子が、どうしちゃったのか戸惑っている
のが俺にはわかっていたのだが、腹の虫の居所が悪くなっていた俺
は、なんだか静子に今の自分の気持ちを思い知らせたい一心で、だ
んまりを決め込んでいた。
 頭の中にはさっきの社長がこびりついたままになっている。俺に
は、静子があのスケベ社長に要らんサービスをしていたのが、だん
だん腹立たしくなっていた。
 俺の静子、という実感がまだ確固としていないのに、実は商売先
ではこんなご機嫌とりをしてた事が許せないような気がして来たの
だ。考えれば考えるほど不愉快のスパイラルにはまって、途中、静
子に「だいじょうぶ? 気分でも悪いの?」と心配させていたりし
たが、ヘソの曲がってしまった俺は、終始腕組みをしたままで、そ
んな気遣いにもまともに答えず、相変わらず憮然と外に眼を向けて
いた。
 そんな中、昨夜からの疲れが出たのか、いつの間にか俺は眠りに
はまり込んでしまった。
 興奮した池の水面が巨大な噴水のように吹き上がり、ヌラヌラと
して笑いくねる黒いゴム娘を飲み込むようなシーンを印象に残し、
息苦しい夢から覚めた俺は、夕暮れ雲の間にくっきりとした満月の
白光を見ながら、アイドリングしている車の薄暗い助手席で寝てい
た事に気付いた。
 いったいどれくらい寝ていたのだろう。
 正面対向側に営業車風の白いバンが停車しており、車幅灯の黄色
い光の前で、書類を持ったジャンパー姿の男と静子が話している。
 間もなく男は深い確度でお辞儀をし、遅れてしぶしぶ返礼する静
子とが、その挨拶で双方の車に別れ、静子は俺が見ていた事に気付
いて笑顔を見せながらドアを開けて乗り込んできた。
「だいぶよう寝むっておられたに、ご気分は如何ですか?」
 相変わらず俺を気遣う静子に、さっきまでふてくされていた事も
忘れて「ああ、俺だけ休ませて貰って悪かったな。仕事の方は済ん
だのかな? 今のは?」と、何気なく訊いてしまった。
「あ、あのね・・・ 私の事ばかりで済まんのだけど、明日用が出
来てしまって、ちょっと行かねばならん事になってしまったんが。
今の人、問屋さんなん。同業の店がやめる事になって。もう歳で・
・・。ウチがそのテリトリーを譲られる事になったんよ。その店の
古い在庫も・・・。んで、明日、下見に行かなならん事になってま
ったぎに。私は、明日はいやだって断ったんが、どうしてもって言
って聞かんから・・・」
 彼女が、俺に申し訳ないと思ってるのがよくわかったので、俺か
ら、明日も仕事に付き合っていいか?と聞いた。
「そりゃ、吉岡さんさえ良ければ私としちゃ・・・」
 無論、俺は問題ない。別に彼女の仕事が問題なのではない。
 思い出した。
 さっき俺が不愉快だったのはあのだみ声社長のせいだ。彼女が他
人のおもちゃになるのは、やっぱり我慢がならない。

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